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ローレイン・オルソン、セント・アルバート、アルバータ
愛する人を突然かつ不意に失った人と同じように、血友病患者であった夫のトムが1994年1月に35才で亡くなって、ローレインは願い事リストを持っている。
「まず最初は、ここにいる誰もがトムを知ることができたらと思います。彼は素晴らしい人でした。私はまた、ここにいる誰もに、起き上がった毎朝がどんなようか、訪れる新しい日がどんなか、エイズ患者がかかるのが肺炎かガンか脳膜炎かその他の奇妙な病気かどうか知ってもらいたいと思います。もし何日か何週間か何ヶ月か一緒にいられるなら、考えて下さい。
兄弟が兄弟の死を見なくてすむように、従兄弟が従兄弟の死を見なくてすむようになってほしいと思います。こうしたことは決して起きてはならないし、二度と起きてほしくないと思います。もう一日だけ、トムと一緒にいられたらと思います。そうすれば、彼にお別れが言える。いま彼が戻ってきてくれるなら、他のことは何でもあきらめることでしょう。」
(1994年4月22日)
後天性免疫不全症候群――もしくは知られるようになってきたようにエイズ――は、数年以上にわたって北アメリカを密かに訪れ続けたが、最初は1977年の初頭、パリからのカナダ航空でやって来た。アメリカの疾病対策センターの疫学者が数年後に「ゼロ号患者」をカナダ国営航空のハンサムでセクシーで冒険好きな航空機勤務員、ガエタン・デュガとして特定した。彼は、アメリカの200年祭と、ゲイ解放運動の年の訪れを祝うために何千人もの人が集まった1976年7月4日のニューヨーク市で、端から端まで全てのパーティに参加していた。皮肉なことに、そのお祝い行事はエイズの流行の始まりとして記され、デュガ氏は現代の腸チフスマリィとなった。その華麗な航空機勤務員は、パリのディスコにいようが、サンフランシスコの公衆浴場にいようが、プリンス港のメッド・クラブでクルージングしているときでも、ハリファックスの自宅で珍しい週末を過ごしているときでも、パーティの生活を楽しんでいた。1980年6月、彼は見苦しい紫色の斑点を見てもらいに、トロントの医師を訪れたが、珍しい皮膚ガンであるカポジ肉腫は、出現した「ゲイ癌」の徴候に慣れ親しんでいたニューヨーク市のグレニッチビレッジの医師をデュガが訪れるまで、診断されなかった。
公式には、この見知らぬ新しい病気と診断された初のカナダ人は、ウィンザーからやって来た43才の男性同性愛者で、デュガのようにニューヨーク、サンフランシスコ、そしてハイチのゲイ公衆浴場の常連客だった。2つの以前には希な病気が奇妙に大発生していると報じられたのは1982年1月のことで、アメリカの疾病管理センターの出版物である疾病週報のたった6ヵ月後のことだった。「男性同性愛者間のカポジ肉腫とカリニ肺炎――ニューヨーク市とカリフォルニア」との記事は、健康な男性であるにもかかわらず、デュガを含め、この30か月内に診断された26人の若者の間にある同じような徴候について詳述した。そうした全ての患者は、この2つの病気の発病を許す免疫破壊が「分離された徴候ではない」ことを示している男性同性愛者であった。ゲイ患者の医療者は、この紫がかったカポジの病変が、通常は年配のユダヤ人や放射線治療によって免疫システムが抑圧されているガン患者のみに見られ、性的に活発なゲイの男性に目立ち始めたのは1979年が初めてであることを知っていた。1979年以前の何十年もの間にアメリカではたった2回しか見られなかった病気である息苦しいPCPが、間もなくゲイ男性の死因のトップとなったように、それらは間もなくゲイ関連免疫不全(GRID)と名づけられたものの確実な徴候になっただろう。
最初、GRIDは一般的に良性のサイトメガロウイルスと後に「ヤッピーのインフルエンザ」と呼ばれることになるエプスタイン‐バーウイルスとの奇妙な組み合わせか何かだと信じられていた。この新しい病気は、オルガスムを高めるためにゲイの男性に人気のあったアミルとブチル亜硝酸の吸入器である「ポッパー」によって、どうも起こされるという通説がまず存在した。しかし二番目に、この不思議な病気の明確な波がアメリカのハイチ社会に、両性愛者と同様異性愛者の間にも拡がってきた。1981年3月以来ニューヨーク市の医師たちは、静注(IV)薬物使用者の間のPCPの大発生にも直面していた。紛れもないことは、この新しい病気が肝炎のように性行為によって感染し得るということであった。こっぴどく直撃を受けていた麻薬常習者は、感染因子が何であろうと、それが血液によっても拡がることの明確な徴候であった。
* * *
エイズの正確な起源はわからないが、ほとんどの人たちが信じているような、まったく新しい病気というわけではない。そのウイルスは、1970年代初頭に急速な都市化と売春への経済的衝動が起き上がってくるまで比較的落ち着いたままであった赤道直下のアフリカ、ザイール周辺に起源を持つ。そこから、フランスやハイチといった、フランス人が言うには、植民地後のアフリカ政府によって働くのに必要とされる黒人に教育をさずけた国々へ移動した。セックス旅行者がパリやプリンス港へ遠出した後、北アメリカへエイズを持ち込み、そして再び病気を持ち帰ったのだ。
世界的に有名な医学歴史家の一人であるミルコ・D・グルメクによると、回顧学はエイズを1940年まで遡って突き止めている。1940年から1981年6月まで、少なくともアメリカの医学雑誌(そのうち2つはカナダ)に掲載された16の症例と、さらに一流のヨーロッパの科学雑誌に15の症例が、現在のエイズの臨床的な定義に合致する。1952年2月、R・Gとだけ識別されている28歳の男性は、全体的な免疫破壊へと退化する「ウイルス性肺炎」でテネシー州のメンフィスの病院へ収容された。王立海軍の船員だっだデビッド・カールは1959年8月31日に亡くなっており、彼の身体はあまりにも異常な病気で穴だらけだったので、イギリスの医師たちは組織サンプルを保存し、後にエイズウイルス陽性の検査結果を得ている。カールは、初期の症例の多くと同様、1955年から1957年にかけて再三アフリカへ旅行し、ほぼ確実に港市の売春宿を訪れていた。1959年、キンシャサのザイールの匿名の患者から引き出された血清が、彼の症状があまりにも異常だったため保存され、後にエイズウイルス陽性との検査結果を得た。同じ年、ニューヨーク市の商船員が免疫崩壊の異常な症状で亡くなり、疫学者はその男がハイチ出身者で定期的にアフリカに旅行していたと述べている。また1959年、G・Yとだけ識別されている36才の大工が、トロント総合病院で極めて重症なPCPで亡くなっていた。「その感染がどこから始まったのか、我々は糸口を持っていない」と、トロント大学病理学者グループはアメリカ臨床病理学ジャーナルでの症例分析で書いている。彼らは、その男性が死の前年に様々な痛み、突然の体重減少、発熱、悪寒、寝汗を伴って5回入院していたことに特に言及していた。G・Yは、カナダでの最初のエイズ症例だと考えられている。最初に立証された女性のエイズ症例は、1964年のアメリカでである。ノルウェー人の船員が病気になり、以前に見たことのない呼吸疾患で1966年に亡くなり、彼の妻と末娘は同じ運命に苦しみ、彼らの全ての組織サンプルは保存され、その後HIV陽性の検査結果となった。セントルイスの15歳の少年だったロバート・Rの血液サンプルの回顧検査は、彼が1968年にエイズで亡くなったことを確認させた。この症例に関して異常なことは、少年はたくさんの同性愛経験を持っていた一方で、彼はアメリカを離れたことがなかった。病気の大発生が西欧社会の点から見てアフリカで記録されたり追跡されなかったりする一方で、ベルギーの科学者たちはエイズ症例を1962年のコンゴまでたどり、いくつかは1975年以前に亡くなったザイール人やブルンジ人のエイズ患者までたどっていた。
しかしながら世界的流行病の始めは、1950年前後の中央アフリカのカポジ肉腫の顕著な増加で通常は確認されている。1960年代まで、この希な癌は臨時の船員のみならず、その地域のアフリカ系移住労働者の全てのグループを直撃した。1975年のキンシャサで厚生官僚は、今では「消耗性症候群」として認識されている急激な体重の減少によって特徴づけられる持続性の下痢の顕著な増加に見舞われた。間もなく、ザイールと同じようにザンビアやウガンダ、ルワンダで、脳膜炎や鵞口瘡のような病気の奇妙な大発生があった。1970年代後半までに裕福なアフリカ人や国外移住者は、治療を求めてパリへ旅行していた。仕事目的の比較的安心でもっと手ごろな旅行もまた、特にウガンダのキンシャサとカンパラをつなぐ街道――今では「エイズ街道」と呼び名をつけられた道――沿いの売春宿を活気づかせていた。
1970年代後期と1980年代初頭におけるゲイの生活を特徴づける快楽主義は、それ自体、性行為感染症の伝播を援助するものであり、活発な同性愛者の約90%は、エイズ・ウイルスが登場するときまでに、B型肝炎とサイトメガロウイルスに感染していた。ガエタン・デュガのような人は、パリでの週末の途中下車の間に、容易に何十人もの性的出会いが可能だった。同様にセックス旅行者は、プリンス港の2週間の休暇の間に何百人との性的接触を持つことが可能だった。調査によると、若いハイチ人の1/3は経済的必要性から外国人旅行者との同性愛行為を請け負っており、それはキンシャサの売春宿のようだ。結果、エイズはハイチの一般的な住民の間に瞬く間に拡がったのである。患者に注射するのに不慣れな開業医は、しばしば滅菌されていない注射筒を使用し、そのこともまたエイズのホットスポットとしてのハイチのいかがわしい栄誉に寄与していた。
驚くことはないのだが、世界で最初の輸血エイズ症例はハイチで記録された。その国で働く31才のフランス人地質学者クロード・シャルドンは、1978年9月に大変な交通事故で腕を切断し、輸血を受けた。シャルドンが1982年1月に亡くなった後、彼の組織はエイズ・ウイルスに感染していると特定されたものの中に入っていた。研究者は、8人の供血者をたどることができ、みな健康状態は良さそうに見えた――初期の重要な手掛かりは、症状のないキャリアであっても病気を伝播し得うるということである。初期においても血液製剤で感染し得るとの徴候が存在したのである。1978年初頭に一回だけ第8凝固因子濃縮製剤の投与を受けた18才のピッツバーグの血友病患者は、後に感染が判明したが、彼の症例は1983年遅くまで医学雑誌に報告されなかった。しかしながら、この症例は、エイズが北アメリカからやって来たことの証拠ではない。1980年代に入って、血液銀行の悪どい商売をやっていたブローカーたち――そのうち一つはカナダ――は、規制のない不衛生な第三世界の「吸血鬼の店」で低コストの血液を購入し、アメリカやヨーロッパに販売してもうけることで知られていた。
1982年1月までに、アメリカの疾病対策センター(CDC)は、2、3ヶ月前にPCPで亡くなった69才のマイアミの住人で異性愛者の血友病患者の初めてのGRID症例を既に調査していた。彼の唯一の感染源は、亡くなる8年前から平均月に4回輸注していた第8因子血液濃縮製剤であるようだった。CDCの疫学者ブルース・エヴァット博士は、その意味を即座に理解した。もし致死性の新しい病気が血液由来ならば、全ての血友病患者と輸血を受ける患者は危険にさらされているということだ。CDCは、PCPの唯一の治療法として知られる薬剤ペンタミジンの要求を追跡し始め、エヴァット博士は血友病症例を追求した。1982年7月16日付の疾病週報で、CDCは血友病患者のさらに3症例を報告し、「血液製剤を通じた感染因子の可能性が示唆される」と述べていた。疫学者は、これが氷山の一角に過ぎないことをわかっていた。
カナダでは、「ゲイ癌」は一層一般とは無関係と考えられていた。この病気が男性同性愛者にのみ出現していたのみならず、カナダ疾病週報はこの新しい病気の最初の報告を掲載している。43才のウィンザーの男性は、サンフランシスコの公衆浴場を巡っていた1979年かハイチの海岸を毎年訪れていたときに感染したらしかった。2、3週間後の1982年8月、20歳の血友病患者ダニー・パラビコリは、深刻な呼吸困難でトロントの医師を訪れた。彼は数年間、説明できないほど病気を経験し、数ヶ月間、寝汗、リンパ腺の腫れ、急激な体重の減少を生じ、今や彼の肺は菌の胞子を吸い込むことによって引き起こされる感染症であるヒストプラスマ症に感染していた。彼は密告者のカポジの染みはなかったが、他のGRIDの徴候をすべて持っていた。この病気は、カナダじゅうの男性同性愛者のみならずハイチ人や静注薬物使用者、血友病患者の間に拡がり続けた。
血液製剤は細菌や真菌、原虫を除去するため濾過されていたので、科学者らはその感染因子をフィルターを通り抜けてしまうぐらい小さなウイルスであると、ほとんど疑いようもなく感じていた。血友病患者間のGRIDの拡がりに関する最新情報において、CDCのジョン・ベネット博士は、この新しい病気を「性的に感染するウイルス感染症…原因となる因子は、特定の環境要因の結果として新しい効力を及ぼすよく知られたウイルスか、例えばヒトもしくは動物の病原体の突然変異体もしくは遺伝子組み換えのような目新しい因子のうちの一つかのどちらかの可能性がある」と記述していた。1982年春、血液濃縮製剤が奇妙な新しい病気に感染していることは疑いようもなかった。唯一の疑問は、同性愛者と同様に血友病患者も死んでしまうかだけだった。
1982年7月27日、疾病対策センターは血液銀行家と血友病患者に対し新しい病気が血液由来のもので、血液製剤の供給と使用には注意するよう警告するために、ワシントンでの緊急会議に招待した。血液銀行家は、ウイルス説は証明されていないと主張して供血制限の考えに抵抗し、全国血友病財団の科学顧問は、危険性に関するより具体的な証明がない限り血友病患者に普通の生活をもたらしてくれた濃縮製剤の使用を止めるわけにはいかないと主張した。実際、会議で現われた唯一のコンセンサスは、男性同性愛者に限定されているわけではないとの認識のもとで、この病気は後天性免疫不全症候群と改称されるべきだということであった。その夏、伝染病は社会の本流に移動し、一般紙がエイズへの注意を喚起し始めた。新聞記事は警告と安心の奇妙な混合であった。事実に基づいた警告は、致死性の病気が人類を直撃しているようだというものだったが、安心は、特定の「ハイリスク」なグループに限定されているようだというものだった。エイズの臨床的特徴は特定されており、この見知らぬ新しいウイルスが一般住民に入りこんでいるという危険性に関する警告は始まっていた。たとえ伝染病は潜行中であっても、警告のベルは切られておらず、一般住民――と、ほとんどの公衆衛生官僚たち――は、エイズに感染するには性的、人種的、遺伝的特質が必要であるとの誤った信念で安心していた。
カナダ政府はCDCの警告に迅速に対応し、ワシントン会議の直後、厚生大臣補佐官のアレックス・モリソンは古参の科学者らに血友病患者の危険性について決断するよう依頼した。1982年8月6日、健康保護部門の生物製剤局長のジョン・フルツ博士は、厚生大臣モニク・ビジンのためにエイズに関する発表の覚書の準備を行なった。血液製剤がカナダの血友病患者に危険をもたらす可能性について初の公式な知見と考えられるその資料には、「最近、血友病患者の間に3人のエイズ症例が報告された。血友病患者は、抗血友病因子(AHF)と呼ばれる血漿分画製剤による継続的な治療下にある。AHF製剤の中の未知の感染因子が、こうした患者のエイズの原因になっているのかもしれないという理論的危険性が存在する。…生物製剤局は、CRC(カナダ赤十字)がBTSセンターの全ての医師たちに対しエイズのための血友病患者観察を拡大し、もし症例が報告されたら研究所の究明と協力するよう警戒態勢をとるよう要請する。」と書かれていた。
その公表のための覚書のちょうど数日後、56才の血友病患者が呼吸困難と免疫不全を示す多くの無関係な症状でモントリオール総合病院に収容された。その男性が医師に告げたところによると、その病状は4月に肘のひどい出血で血液濃縮製剤を輸注したほとんど直後に始まったという。最初、発疹が生じ、そして発熱、体重減少、悪寒、寝汗と続いた。その風邪様症状――数年後に感染の初期症状である陽転の症状として特定されることになる――はエイズの疑いを感じさせたが、患者は異性愛者だった。医師は症例を、人工インシュリンのような性質を異にするタンパク質の免疫システム上の影響、特にT4値の変化能力について研究している医学研修生であったクリストス・ツォカス博士に問い合わせた。ツォカス博士は、濃縮製剤もT4値――免疫のカギとなる指標――を変化させるかもしれないという考えで好奇心をそそられ、エイズ因子の可能性として認識したときはなおさらだった。
彼の患者は、カナダ血友病協会と世界血友病連盟の創設者で、カナダで最初に凝固因子濃縮製剤を使い始めた者の一人であったフランク・シュナーベルだった。病気で苦しむ人たちのために幾多の扉を開いてきた男が、最初の薬害エイズの被害者の一人となるのだった。
赤十字は、生物製剤局のさらなる監視と調査の要求に対し、問題を調査する委員会を設置することで応えた。多くの非公式会議の後、事実上のカナダのエイズ専門家の集まりであるエイズに関する特別委員会は、1982年12月2日、赤十字のトロント本部で開かれた。会議の議事録によると、彼らはアメリカの血友病患者間における感染の増加について議論していた。「このことは、静注血液製剤がエイズ発症の原因因子の感染ルートになっているのかもしれないという懸念を増大させている。もしこのことが本当に真実だったとしたら、献血と血液および血液製剤の分配の面において、深刻で遠くまで及ぶ意味を持つことになる。」 同じ会議において、科学者たちはウィスコンシン大学の「第8因子濃縮製剤の治療を受けている血友病患者は、クリオプレシピテートのみの治療を受けている血友病患者には見られない細胞性免疫の低下が示唆される」との新しい研究について議論した。それは、もし新しい病気が血液由来のウイルスであることが疑われるとしたら、必然の話で、クリオ製剤が1人から10人の供血者の血漿から派生するのに対して、濃縮製剤は2万人分にも達する供血のプールから製造されるのだから。
患者をより安全な製剤へと転換させることは、実現性として唱えられなかった。実際、予防は全く問題ではなかった。会議の大部分は、異性愛者社会にどのようなことが起きるかを予想できるように、男性同性愛者と血友病患者におけるエイズを追跡する調査プロジェクトにどうやって資金を得るかという議論に象徴された。「今や同性愛的生活様式以外のグループをも巻き込んだこの病気の流行の本質は、重大な懸念である」その月の後に用意される資金援助の申し込みには、そのように書かれていた。「血液製剤の伝播の可能性は、さらに悩ませるものであり、国立輸血事業と公衆一般に密接な関係がある。トロントでの最近の問題の確認および頻繁な報告における明白な増加の観点から、伝染病はここでも同様に始まったと我々は考えている。」 10万ドルの要求は、研究者が申し込み期限を一日間違えたため却下されることとなった。伝染病は始まっていたが、規則は規則だった。
研究者たちがエイズで苦しんでいるモントリオールの血友病患者症例を議論したにもかかわらず、カナダ血友病協会には何の注意も与えられず、2,000人の会員の多くが新しい病気に罹患する危険に瀕していた。会議での協会の代表者は、団体の医療及び科学顧問委員会の委員長のロシリン・ヘルスト博士だった。彼女は、赤十字トロント支部の医療副部長でもあり、血液事業におけるエイズ関連の他の人たち以上に認識していたことは疑いようもない。
会議の数日後、エイズに関して赤十字の先頭に立つ上級顧問ジョン・デリック博士は、この病気に関して最新の科学的証拠を要約した「非公式な手紙」を赤十字の医療部長に送っていた。特に彼は、アメリカでの血友病患者の感染について問題提起し、エイズの症状を呈した人たちがみな凝固因子濃縮製剤を大量に使用していたことに言及していた。エイズと確認された7人の血友病患者のうち2人は子供であり、それゆえ「血友病の子供たちは、今やこの病気の危険を考慮しなければならない。加えて、多くの症例が増加し続けており、この病気は血友病の患者に著しい危険性を投げかけているのかもしれない。」と彼は付け加えた。実際、彼は「一人の血友病A患者の死は、明らかにエイズに起因したものである」ことを明らかにしていた。(今日、公式な統計値では、1982年秋にエイズで死亡したカナダの血友病患者が記載されていない。しかしエイズの診断は、他の病気以上に、それに付随する政治的かつ社会的荷物を背負っており、結果として、この病気は慢性的に報告されない状態にあり、時々わざと公衆衛生当局に報告されないこともある。)
デリック博士が非公式な手紙を送り出した同じ週、アメリカ赤十字の生物医学部長のアルフレッド・カッツ博士は、アメリカの医療部長に彼自身のメモを送り出していた。「エイズは、血液や抗血友病因子製剤を通じて伝播可能な可能性が高い」と彼は書いている。「我々の状況は、次々と失う耳印ばかりだ。」 血液および血液製剤を通じたエイズの伝播を減少させる緊急方法を勧告するのではなく、カッツ博士は彼の努力を使者を射ることに向けた。CDCやアメリカの規制者である食品医薬品局(FDA)の「事実認定を反駁することに我々は最大限努力しなければならない。」 赤十字や他の血液銀行家にとって不幸にも、エイズが血液および血液製剤によって拡がるという証拠は日々増加していった。1982年11月5日、疾病対策センターは医師と病院に対しエイズ患者の処置に際して「共通の注意」を採用するよう警告した。言い換えれば、医療従事者は全ての患者の体液が潜在的感染性を持つことを想定し、ラテックスの手袋を着用し始め、注意深く針刺しを避けるべきだということである。不幸なことに、血友病患者と輸血を受ける患者は、同じように啓発された注意の恩恵を受けなかったことである。
1982年、2か月から4才までの4人のアメリカの赤ちゃんがエイズを患っているとの報告がなされた。3人はエイズに感染している母親(全員静注薬物使用者)から生まれており、4番目は無症候のハイチ人女性からだった。これらの症例は、この病気が血液によって伝播することのさらなる証拠を提供していたが、感染因子が例えば妊娠過程や出産時、産後、母乳哺育の過程で伝播した可能性を考えると、研究者たちは確かなことは何も言えなかった。1982年12月10日、疾病週報は輸血後にエイズを発症したサンフランシスコの20ヶ月の赤ちゃんの症例を掲載した。編集者注のなかで、アメリカ政府の科学者たちは「この報告と血友病患者間のエイズ報告の継続は、血液および血液製剤を通じてエイズが伝播する可能性について深刻な問題を提起している」と述べている。エイズが血液由来であるということを疑うか信じたくない人たちは、逃げ口上を持っていた。生後6日間でRh不適合の治療のため、赤ちゃんは6回もの輸血が必要であり、そのことが免疫システムに深刻な寛容をもたらしたのだというのだ。しかしながらその症例が掲載されるまでに、赤ちゃんに輸血された血小板の供血者自身がエイズを発症していた。
1982年12月11日、カナダ疾病週報は血友病患者間のエイズに関する予備研究の最初の結果――医療調査会議による研究――を掲載した。エイズ・ウイルスはまだ特定されていなかったが、大量の凝固因子濃縮製剤(年間4万単位以上)を使用してきたカナダの血友病患者の70%が既に細胞性免疫不全の症状を呈しており、それに比較して製剤を使用していない血友病患者では5%に過ぎなかった。明白なのは、研究対象グループの32人のうち治療方法を変更した者は誰もおらず、免疫異常の徴候について告知されたものもいなかったことである。色彩豊かなスタイルでカナダの医師たちに配布されている週刊紙であるメディカル・ポストは「血友病患者は時限爆弾の上に座っているのかもしれない」と予言的な警告をしていた。新聞は、マギル大学の医学教授ジョン・シュスター博士の男性同性愛者は献血するべきではなく血友病患者は血液製剤の使用をごくわずかな最小量にまで減らせるべきだとの警告を引用していた。
カナダでの汚染血液の悲惨な話は、とりわけ機会を見失った物語である。厚生官僚らが1982年に得ていた情報に基づいて賢明な行動を取っていれば、何百人もの感染は避け得ただろう。エイズがまだ完全に理解されていなかったというのは真実であるが、警告のサインは明らかに存在した。血友病患者と輸血を受けた赤ちゃんの感染である。不幸なことに、官僚たちは赤旗を無視し、血液制度の安全性確保の責任を委託してしまった。伝染病と闘う代わりに、後にある観察者が「憎々しい惰性」と表現するものを行なったのである。
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翌月から、輸血由来エイズの脅威を議論するいくつかの重要な会議が存在した。アメリカとカナダの血友病団体は、一連のエイズ予防方法を催促していた。血液銀行家らは、お金がかかるとしていかなる行動を取ることも嫌がっていたが、結局、彼らは消費者の圧力に屈したのである。1983年3月初頭に赤十字が献血者の選別計画を公表した後、そうした抗議は間もなくやんだほどである。
1983年3月31日、ブリティッシュ・コロンビア州のプリンス・ルパート出身で未婚の28才の製粉所工員アルティバーノ・ミリトは、エイズで亡くなったことを広く公表された初めての血友病患者となった。彼は本当の診断名を告げられることなく亡くなり、彼の家族が検死の後にガンで亡くなったのではないと知ったとき、彼らは怒った。感染原因は疑いようもなかった。1979、1981、1982年と、ミリトはそれぞれ一回ずつ第8因子濃縮製剤の輸注を受けており、当時彼はリンパ節の腫れ、発熱、発疹などエイズの初期症状の全ての悪い発作にますます苦しんでいた。それでも、彼の死の本当の理由はミリトがゲイだったからだとの噂があった。彼が亡くなる1ヶ月前、その血友病の中等症の患者は、赤十字が必要とされる血液製剤のエイズをもたらす危険性が非常に高いことを怖れたという理由から、手術を拒否された。「(ミリトへの)手術は大量の第8因子製剤を必要とし、エイズ伝播の危険性ゆえ緊急性のないかぎり赤十字は出荷していなかったのです」と王立コロンビア病院の血液学者マイケル・ノーブル博士は書いている。おかしなことに、赤十字は国じゅうの血友病患者が毎日その危険性に気づかずに自分の身体に輸注しているのに、手術のための製剤は出荷しないというのだ。
1983年7月、18ヶ月前にマイアミで血友病患者の夫を失くした73才の妻がエイズで死んだ。彼女の死は、血友病患者や輸血を受けた患者の配偶者や恋人の危険という全く新しい領域の懸念のきざしであった。新しい病気によって脅かされている女性たちに対する関心の欠如は、そのときまで専ら男性にのみ関心を寄せていて、容易に予防できる多くの死をもたらすこととなった。アメリカの血液銀行業界は、ありていに言えば、別の心配をしていた。献血は著しく落ち込み――輸血される患者ではなく、献血者がエイズに感染するのではないかと誤って信じられたことの一部せいである――血液銀行家はワシントンで友人たちに声をかけることで対応した。8月1日、アメリカの食品医薬品局とアメリカ血液銀行協会の輸血委員会長ジョセフ・ボヴ博士は会議の審問で、輸血エイズに関する公衆の関心は誤っていると発言し、ヒステリックなマスコミを非難した。「もし多少のエイズ症例が輸血に関連していると判明したとしても――もしそうならば、それでも重大なことだが――このことは我々の血液供給が汚染しているという意味に解釈し得るわけではないと私は考える」とボヴ博士は証言した。彼は、輸血エイズよりも虫垂切除やヘルニアで死ぬ可能性の方が20倍も高いと言ったのである。
献血者を失うことを怖れていたカナダ赤十字協会は、同様の方針を採用した。彼らは、輸血を受ける患者の危険性は一万分の一だと見積もった。公に赤十字は、輸血由来エイズのショッキングな真実に、むしろより明るい解釈を押しつけたのである。1983年8月、公衆衛生当局に対する要旨のなかで赤十字は「血液がエイズが登場する以前よりも現在の安全性が低いとする証拠は存在しない」と述べている。
よく言えば、赤十字はカナダの血液収集制度の自由意志から出た性質をエイズのような病気による破壊から保護することを純粋に考えていたのだ。良い人間は悪い病気にかからないなどという主張が表面的には人をひきつけても、それは科学的根拠を持たない。アメリカよりもカナダのゲイ社会でのエイズの拡がりが、特にアメリカの疫学者はゼロ号患者としていくつかのカナダの都市で性的に活発な男性を抜擢していたことを考慮すると、ゆっくりだとする理由は何もなかった。第二に、輸血用血液はカナダと同様アメリカでも専ら献血から集められている。最後に、カナダの血友病患者に配られている血液製剤の少なくとも半分は、アメリカの原料血漿からつくられており、そのことが赤十字の安全性の主張を蝕んでおり、どちらかと言えば緊急に行動するための必要性を増している。1983年8月18日、エド・クーバインがカナダ血友病協会(CHS)代表ケン・ポイザーに書いた手紙のように、「血友病患者が治療を受けるたびに、この注射でエイズになるのではないかと怪しんでいた」のである。クーバインは、団体が凝固因子濃縮製剤の安全性の独立した調査を要求するべきだと言ったが、CHSは騒ぎを起こすことを望まなかった。
輸血由来エイズの症例数は、ゆくりだが冷酷に増えつづけた。1983年8月『ザ・ニュー・イングランド・オブ・メディスン』は、1982年10月の輸血でエイズに感染したモントリオールの女児の症例を掲載した。彼女が出生児に受けた血液成分製剤5単位のうち一つが複数のセックスパートナーを持っていたゲイの男性にたどりつき、エイズ感染の初期症状を呈していたことが判明したのだ。モントリオールのセント・ジャスティーヌ病院の免疫学者ノーマンド・ラポーヌ博士は、この赤ちゃんの症例でエイズが血液によって伝播可能だということは疑いようもないと発言した。その月、連邦政府は伝染病に対して最初の暫定措置をとり、エイズに関する国立諮問委員会(NACAIDS)――厚生大臣モニク・ビジンに「カナダのエイズと闘うために適切な行動と主導権」に関しアドバイスする団体――の創設を公表した。専門家委員団の創設の機動力は、伝染病学的なものではなく政治的なもので、ビジンの悩みはカナダにハイチ人が最も集中していることで、彼らは怒っていた。最初の会議の一つである1983年11月9日、NACAIDSの委員――赤十字の血液事業長のロジャー・ペラウト博士と生物製剤局長のジョン・フルツ博士を含む――は、1/3の血友病患者がエイズの症状を呈していると報告を受けた。しかし、彼らにできることはほとんどなかった。カナダ全体のエイズ予算は、4年間で149万ドルで、最初の年にNACAIDSに許されたのはたった3,800ドルだった。
1983年11月、マヨ診療所の研究者たちは、1980年11月の輸血でエイズに感染した53才の男性の症例の詳細を発表した。彼は、心臓手術の際に17単位の血液成分製剤の輸注を受け、29ヶ月後にエイズを発症していた。この症例は、輸血エイズが数年間の脅威になっていたというだけでなく、長期の潜伏期間が多くの未発見の症例の存在の可能性を意味してることを証明したという理由から重要であった。(後に研究者たちは、エドモントンの80才の男性が1980年5月の小さな手術の際にカナダで輸血エイズに感染した初めての患者であることを知ることになる。彼は、サイトメガロウイルスとPCPの奇妙な合併症でたった数ヶ月後に亡くなったが、その関連性は献血者が数年後にエイズで亡くなるまでわからなかった。)
世界中から38人のエイズ専門家が1983年11月22日ジュネーブの世界保健機関の本部に集められ、エイズ流行に関する初めての国際会議のときまで、この病気は5大陸の33ヶ国で報告されていた。この会議での最も深刻な議論は第8因子濃縮製剤に関するもので、ヨーロッパの代表は流行の速度を弱めることのできる地域であることを確信していたからだった。ヨーロッパの9ヶ国は既にアメリカからの輸入を禁じていたが、カナダはエイズが血液を通じて伝播する可能性があるとの決定的な証拠は存在しないとのアメリカの方針をまねしていた。エイズ連邦センター長のアリステール・クレイトン博士は会議で、カナダでは本日までに50のエイズ症例が記録されていると発言した。死亡した一人の血友病患者と他の一握りの病気の者たちは、十分証明されていなかった。
翌月、デイル・ローレンス博士はCDCで、エイズの平均潜伏期間は、以前考えられていたような2年やそれ以下ではなく、5.5年であるとする文章を発表した。このことは、ウイルスに曝露した人は6ヵ月以内に発病する可能性があるか、――より驚くべき可能性として――いかなる病気の徴候も見せずに11年間も生き続ける可能性があることを意味していた。輸血エイズと確認された39症例を含め、既に3,000人のアメリカ人がエイズに感染したことが知られていた。
1983年12月、アメリカ下院の小委員会は、エイズ危機への対応の調査結果を発表した。「悲劇的なことにエイズ調査への資金レベルは、伝染病との戦いを遂行している科学者や公衆衛生官僚の専門的判断によるというより政治的配慮によって規定されてきた」と内政関係と人的資源小委員会の委員長テッド・ワイスは言っている。「不適当な資金は、調査活動の許しがたい遅延と結びつき、エイズ危機への緊急な判断に対する行政責任と同様、国家的健康非常時に対する連邦政府の準備に疑問を抱かせる」。
カナダは、エイズの拡がりの見地からアメリカより一歩遅れていて、機会の窓を与えていた。しかし、現実的な対応の見地からは2歩も遅れていた。「成り行きを待つ」以外に、まだ何の計画も存在しなかった。カナダ厚生省は、トロント大学の科学者たちからの輸血由来エイズの調査のための別の資金要求を拒絶することによってその年を終えた。
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1983年末までアメリカとフランスの科学者たちは、ともにエイズの原因ウイルスを発見していたが、公式発表がなされるには1984年4月を待たなければならなかった。ウイルスの名前に関して同意が得られないにもかかわらず、この病気やその伝播形態に関する十分な知見は存在した。ザ・ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスンが1984年1月の論説に書いたように、「医師たちは、もはや輸血によって患者が感染しないことを請け負うことができない」のだ。けれどもカナダでは、医師たちが毎日その保証を与えていた。カナダ医療協会と赤十字、公衆衛生当局は、何一つ警告を発しなかった。実際、1984年3月、厚生省はエイズの危険性に関して何十万冊ものパンフレットをスーパーマーケットで配布した。パンフレットには、輸血によってエイズに感染する危険性は、2/1,000,000だと書かれていた。同じ時期、NACAIDSは、ザ・メディカル・ポストへの折り込みとして配布された4頁の付録を発行し、そこにエイズが血液由来であるという「決定的な証拠は何もない」と記載した。アメリカでもカナダでも、ゲイ社会はコンドームの使用を促進する教員キャンペーンを引き受けた。しかし、安全なセックスというメッセージは、さらに何年間もマスコミのキャンペーンや学校の授業に登場しなかった。
1984年3月、CDCが「共通の注意」実施を力説してから丸16ヶ月後、サンフランシスコのアーウィン記念血液銀行は、B型肝炎曝露の徴候で献血者を「代理検査」することによってエイズのための最初の血液選別を始めた。(事実上、エイズの症状のある人は皆、既にB型肝炎に感染しており、それゆえ危険性の優れた指標であった)。この方法は、血液製剤の費用に10%加わることになるが、アメリカの疾病対策センターのトーマス・スピラ博士が後に示したように、HIV陽性献血の88%を除去するものだった。サンジョセの赤十字を含め、他の4つのカリフォルニアの血液銀行が真似をし、安全性の向上ではなく「競争圧力」を口にした。カナダでは赤十字が独占しており、それゆえ競争は要因ではなく、代理検査は拒絶された。
他の革新的な方法が、凝固因子濃縮製剤を安全にするために提案された。肝炎ウイルスを殺すため血液製剤を殺菌する製造業者もあり、加熱処理が製剤をより安全にするというのは、肝炎からエイズまで――どちらも性感染症であり血液由来である――他の類似のものすべてに当てはまり、合理的であるように見える。けれども、もう一度、新しい製剤はより費用がかかり、それゆえ技術は証明されていないとして帳消しにされた。論争の余地のない一つの事実は、エイズに感染した女性はほとんどいないということで、トロント市厚生省の上級官僚でカナダ血友病協会のボランティアであったウィリアム・ミンデルは、凝固因子濃縮製剤を女性の献血者からのみ集められた血漿で製造するよう提案した。彼の提案は即座に却下され、彼が言われたのは、赤十字は区別しないということだった。
赤十字輸血事業オタワ支部の医療部長ゲイル・ロック博士は、アメリカの血漿より安全であると広く信じられていたカナダの原料血漿の量を劇的に増やすことのできる方法を開発した。血漿が集められるとき、袋には前もって少量の抗凝固剤が塗られているが、ロック博士は、いつもの抗凝固剤であるブドウ糖が第8因子の収率を実質的に下げることを発見し、ブドウ糖をヘパリンに置き換えることで、彼女は収率を増やすことを可能にしたのだ。ロック博士はまた、血漿成分献血者に血液中の第8因子を増やす薬であるDDAVP(デスモプレシン)を注射することを提案した――こうすることで、献血者を害することなく収率を上げることができる。彼女の2つのアイデアを組み合わせることによって、濃縮製剤の製造に必要な血漿をカナダは自給できるとロック博士は見積もった。そして、もっと安全性を高めるためには、全ての血友病患者にクリオプレシピテートによる治療が可能になることで、もしクリオ製剤製造に必要な血漿がDDAVPによって押し上げられるなら、各血友病患者は、2万人分の血漿が使われる濃縮製剤の代わりに、3人の献血者の献血で治療ができることになる。1984年初頭まで、既にエイズはアメリカの血友病患者の死亡原因のトップであったが、こうした革新的な提案の全てが無視された。カナダ当局は、ただ弱腰のスクリーニング方法を始めただけだった。
1984年4月23日、アメリカの国立癌研究所のロバート・ギャロ博士は、エイズの原因としてヒトT細胞白血病ウイルス3型すなわちHTLV-IIIの発見を大々的に発表した。(アメリカ人は、フランスのパスツール研究所のリンパ節腫脹関連ウイルスすなわちLAVがエイズの原因であるとの早期の、だが低い調子の発表を全く無視してきていた)。保健福祉省(HHS)長官マーガレット・ヘックラーは、この科学的躍進に政治的回転を加えた。「今日の発見は、致死的疾患に科学的に勝利したことを意味しています」と彼女は言った。「エイズが特定された1981年の最初の日からHHSの科学者と医療提携者たちは、エイズの謎の解明のために探求し続けてきました。ぐずぐずした日もなく、公衆衛生事業資源は効果的に動員されてきました。」 政治家と彼らの被任命者たちがエイズ・ウイルスの素早い発見に喚声をあげている一方で、そうした作業は比較的簡単だったというのが真相である。伝染病の大発生時において検索が優先事項であったならば、ウイルスは1982年にはおそらく見つかっていて、多くの死が避けられただろう。
ウイルスの発見が発表される前であっても、疾病対策センターの科学者たちはLAVを利用したハイ・リスク・グループでの検査を指揮していた。(結局、LAVとHTLV-IIIは唯一かつ同一のものだということが判明し、和解で「ヒト免疫不全ウイルス」すなわちHIVという名前が押しつけられた)。国立癌研究所の真の業績は、商業的量でウイルスを複製してきたことである。研究所は月に何百ガロンも大量生産し続け、エイズ抗体による血液検査に必要とされた。目標は、6ヵ月以内に商業検査を市場に出すことであった。とかくするうちに、研究者たちはハイ・リスク・グループに属する人たちへの検査を始め、一般的な住民における伝染病の拡がりを特定しようと試みていた。
間もなくアメリカ赤十字は、国中の献血者の1/500が検査でエイズ・ウイルス陽性だったと報告した。ニューヨーク市の薬物診療所で、静注薬物使用者の87%が検査で陽性だった。サンフランシスコの研究者は、エイズやARC(エイズ関連症候群)の徴候を見せない男性同性愛者の血液を検査し、55%が検査でエイズ陽性で、ニューヨーク市のゲイの感染率は38%であることを見いだした。エイズの徴候を見せない血友病患者での検査では72%が感染していることを明らかにし、月に一度以上第8因子製剤の輸注をしている者では感染率が90%であった。
これらの恐るべき数字は、疫学者たちを怖れさせ、落胆させた。「伝染病」という言葉は、ハイ・リスク・グループ間の状況を描写し始めていなかった。グラフ上の感染率の点は、差し迫った壊滅の絵を描いていた。エイズが体液で拡がり、精液に曝露するよりも血液に曝露した方がウイルスは確実に感染するということは、もはやほんの少しの疑いさえもなかった。
奇妙なことに、これらの恐ろしい警告は、血液銀行家に緊急策を設けさせなかった。彼らは統計値の上で自ら回り、症状もなしに感染した大量の人たちの存在は、単にこの病気が以前考えられていたより致死的でないことを意味し得るのみだった。それゆえ、血液由来エイズに曝露した人たちの感染率が50〜75%であるにもかかわらず、成り行きを待つ手法が続いた。アメリカでは5,000人以上の人がエイズに感染し、うち2,300人が死亡していることを決して気にしない。150人のカナダ人がエイズに感染し、その半数以上が死亡していることに関し、決して気にしないのだ。
1984年春にエイズ・ウイルスが発見されて以降、赤十字は献血者向けに新しいパンフレットを発行した。エイズに言及したのは初めてであったが、その症状や病気と関連するハイ・リスク行動についての言及はなされなかった。献血者は性的活動や薬物使用癖について聞かれず、彼らは単に健康かどうかを尋ねられただけだった。自発的献血が血液供給の汚染を防いでいるという考えに必死にしがみつき、献血所は平常通り仕事を処理していた。
ガエタン・デュガも平常通り営業していた。アメリカの疾病対策センターの上級官僚は、ブリティッシュ・コロンビアの首席疫学者のディム・ジョンストン博士に電話し、性癖を変えることを頑に拒絶しているデュガに逆らうよう警告した。ジョンストン博士は、この航空機勤務員が1979年から1984年にかけて暮らしたオンタリオ、ノバ・スコシアおよびケベックの厚生省医療官僚に行動させるには力不足を感じていた。公衆衛生官僚は、血液制度を通じてのエイズの拡がりに取り組めなかったのと全く同じように、大胆な性的活動が他人を危険にさらしている男に立ち向かわなかった。もしそうでなければ、ゼロ号患者は、エイズはアメリカの問題だという幻想を粉みじんに砕いていただろう。
彼のすすんだ病状にもかかわらず、デュガはまだバンクーバーのゲイ・バーを巡っていたが、彼は間もなく出生地のケベック市に戻ってきた。彼はそこで1984年3月30日に亡くなった。